Chojiro: tea bowl, known as "Jindouji" Black Raku
口径 約10.6~11cm
高さ 約7.5~8cm
利休の佗び茶の精神を具現化したような長次郎の楽茶碗は、既に享保の頃から、鴻池家の先祖であった山中道億(1655~1736)によっても
その真贋が取り沙汰されたように、なかなか扱いのむつかしい茶碗の一つかと思います。
利休の好みに応じて長次郎が作ったにしても林屋晴三氏が、いみじくも「長次郎工房」と表現しているように、
少なくとも5~6人が茶碗作りに従事していたようで、長次郎本人の作と、工房の人の作との区別はなかなかむつかしいのかもしれません。
只、その5~6人という人が、手捏で本茶碗を作ったのか、それとも分業で土を採ったり、釉薬を作ったり、窯焚きをした人達なのかは分かりません。
唐津や美濃の焼き物のように、物原があって陶片との付き合わせが出来て、年代や産地の特定が可能なものと違い、
内窯という小さな窯で焼いたことから、陶片との付き合わせが出来ず、伝来や箱書き等の状況証拠から多くは判断されてきたように思われます。
林屋晴三氏の記述に
「長次郎から常慶にいたるその工房の楽茶碗は、俗に聚楽土と呼ばれている赤土を、黒・赤茶碗ともに用いているが」
(中央公論社 新装普及版日本の陶滋1長次郎光悦86頁)
とありますが、今回御紹介の茶碗も、高台の内側の釉掛かりの薄い箇所に赤土のような素地が見受けられる箇所が何カ所かあります。
その点から判断すると、長次郎から常慶までの楽茶碗と見て良いのではないかと思われます。
更に長次郎ということを補完するのが、宗徧流流祖、山田宗徧の箱書です。
山田宗徧は心身共に宗旦に尽くし、利休伝来の四方釜を贈られ、「四方庵宗徧」と名乗り、また「不審庵」「今日庵」の庵号を両方共使うことを許されました。
この箱書の蓋表の「不審庵」も宗徧の庵号として何ら問題はありません。
恐らく、今まで世の中に未だ知られていなかった長次郎の黒楽茶碗ではないかと思われます。
只、江戸時代に黒漆でかなり上手に補修されていること、見込みには裏までは通っていないニュー(窯割れか?)がある事が惜しまれます。
尚、長次郎の黒楽茶碗には、目跡が五つのものが多い様ですが、銘「次郎坊」の様に目跡のはっきりしないものもあるようです。
「神童寺」も、はっきりしませんが、目跡らしきものがうっすらと見受けられます。